昭和40年9月21日 夜の御理解



 信心をしておって、変わったことが起こってきたら、おかげと心へて信心せよと。信心しておって、変わったことが起こってきたら、おかげと心へて信心せよと。そりゃ確かに、もうあのう、おかげなんですけれども、まぁ、(とうとい、それこそ?)おかげとわからないところに、不足を言うたり、不平を言うたり、悲しんだり、腹を立てたりするわけでしょうね。
 そういうことが、おかげの受けられない、えー、もとを作っていく。言わば、おかげを長、長引かせる。いよいよおかげが、いつまで立っても成就しない。
 信心をしておって、変わったことが起こってきたら、おかげ。それは、もう腹の立つようなことが起こってきても、痛いことが、痒いことが、情けないことが起こってきても、おかげと心得て信心せにゃならんのですねぇ。
 私はここんところを、一つホントに思い込みがでけたら、素晴らしい、えー、おかげを頂くだろうと思いますねぇ。またホントに、あの毎日毎日が楽しいことであろうと思いますねぇ。
 変わったことが起こってきたら、おかげと心得られるということです。ねぇ。それをその、えー、具体的に一つ一つあのう、わかっていくことがあるですもんねぇ。後で、いやぁ、あれはホントはおかげじゃったといったようなことがあるでしょうが。それを、不足を言うたり、不平を言うたりしておりますもんねぇ。
 今朝、あー、から、また、体がちょっとこう悪かったんです。けん、善導寺の、おー、御霊様のお祭りでございましたが、一時のお祭りですから、12時過ぎてまいりました。
 えー、午前中ご奉仕させて頂いて、えー、下りる時も大分悪かったんですが、まぁいよいよ行く頃には、もう自動車に、こう一人で乗れないくらいに悪かった。
 あちらに着かせて頂いたら、もういよいよ気分も悪くなり、もう、んー、関さんがえらいその、だれかオレが悪うな、なさいましたと言われるくらいに、気分も悪い、体も、もう全然、お広前では立つこともできなかった。
 私あのう、大体が水分をたくさん取るんですけれども、この体が悪い、後先にはもうホントに、今日も朝からもうホントに、もうどう、そうでしょうねぇ、二升ぐらい飲んだんじゃないんでしょうかねぇお水を。朝から。
 あ、よーう水を頂くんです。ねぇ。ほいでその、おー、ホント考えようはですねぇ、何かうちで、こう、し、いじってる、ここで足が立たんようになる分にはいいけども、善導寺では立たんようになるのは、もう、たくさんな(ごじぞう?)のなかで、足が立たんのですから、ホントにまぁ言うなら、格好のええもんでもないし、恥しいことなんだけれども。私はそれを、ホントにあのう、善導寺でそう足が立たんようになるということも、おかげだと実感するんですねぇ。あー、神様のおかげだとこう思うんです。ん。
 気分が悪くなることもおかげ。ホントに、あのう、お祭り、祭、祭典中だけでも、何べん、関、あのう関さんが、お水を汲みに行かれたかわからんくらいに、そのう、がぼがぼみずを、お祭り中にでも頂くんです。それをもうホントに、みんなそのおかげだとこう思うんですねぇ。
 ねぇ。信心しておって、変わったことが起こってきよるんですから、やっぱおかげです。それで、私の場合はもう、そのう、おかげと思わなければおられないことが、そのあ、あ前後に必ずあるということです。ね。まぁ、その理由はともかくと致しましてから、やはりおかげなんです。どうでしょうか。ねぇ。
 ホントにもう、いき、勢いから悪くなる。いっていよいよ悪くなる。て言うて、そのう、難儀を、難儀とこう思うて、お、おったんでは、私はおかげにならんと。
 神様の、おー、お働きて、もう私がわかり得ておることだけでもこのくらいですから、まだわかり得ないでおるところに、どれくらい神様のご都合やら、おかげやらがあるやらわからんです。
 これでもまぁ、一つのおかげとわかったことなんですけれども、昨日、(ええしろう?)先生が、あるところに行かれてから聞かれた話なんですねぇ。まぁー、人間は毎日ですねぇ、お水をし、コップ七杯飲んだら、もう絶対、これもう絶対、あのう、動脈硬化にはならないということですねぇ。あはー、私はおかげで、おそらく動脈硬化にはならないと思うんです。これだけお水を頂きますから。ねぇ。
 やっぱ体がこわるときには、必ず特にお水を頂くんですけれども。やはり、心が、私が清まれたい、清まれたいといつも、皆さんに言うておるのは、嘘じゃないです。もう真から、根から、思うておるです。ね。心に私が、心の清まりを願わして頂くから、神様からがも、私は清めてくださっておるんだと思うですね。
 体の血が、お水を頂くことによって、いわゆる浄血される作用があるんだそうです。ね。ですから、もう、心が極まれば、あー、体も極まらなければなりません。健康の方も、おー、おかげになってこなければならんというけれどもです、なら、その心が改まれば、体はす、すぐに良くなるということもないです。
 その間です、も、体の方が、清められていっておる間は、やはり、足が立たなかったりということもあれば、神様は、わざわざ皮肉なようにです、うちにおるときはそうでもないのに、善導寺、に、なり、お広前で、急に悪くなったりする。それで、こ夕方、(ただしいらいきゃ?)また立ちますですもんね。もう不思議な話であるけれども。
 ホント信心しておって、変わったことが起こってきたら、おかげと心得なければおられない。まぁ私は、こんなことを、自分で感じておることだけでも皆さんにお話したら、はーすごい、先生の体の悪いのは、そういうわけですかというて、たぶらかされたこともあろうと思うけれどもです、とにかく、わかってもわからんなんです。
 信心さして頂いておって、みんなで幸せになりたいと。おかげを受けたいと。そのおかげを受けたいという、幸せになりたいという、その働きなのです。言うならば、自分の心の中の汚いものも、自戒したようなのです。起きてきた事柄一切は。ね。
 不幸にならなければならないもとがいっぱいあるから、たくさんの水を飲まして、その、お、血を清めてくださることによって、体が健康になるようにです。ね。心を清めてくださる働きが、私どものうえに始まるのです。私どもが、神様に願えば願うほど、そう(せついならせすってあるほど?)神様はそういう働きを私共のうえにしてくださる。
 目の前には、それが困ったことのようにあったり、腹の立つようなことであったり、情けないことであった。その、情けないことだから情けながっとったらです、いつまで立ってもおかげは受けられんということ。その、情けないということを、よくよく思うて見てです、ね。おかげと心得させてもろうて、そこを頂きぬいていくことにとってです、ね、私は神様が下さろうとしておるおかげが、おかげ頂けれるようになる。そういうこちらの状態になるときには、もうおかげ間近しと言うても良いくらいだと私は思う。
 ね。信心しておって、変わったことが起こってきたら、おかげと心得てです、どのようなことでも。どのようなことでも、おかげと心得れるだけの信心を、私は身につけたとき、私は、信心さして頂いた者の、言わば幸せということが、言えるんじゃないでしょうかねぇ。
 普通の人なら腹を立てることを、悲しむところをです、ね。それをおかげと心得られるのですから、有り難いじゃないですか。
 本日は、おかげ頂きました。